村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のあらすじ解説
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。
老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。
静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の書評
地下鉄、青山一丁目、ボブ・デュラン、ロシア文学、レモンスフレ────所々に東京の日常を思い起こさせる言葉が散りばめられた現実的な「ハードボイルド・ワンダーランド」。
一角獣、壁の中の町、夢読み、雪景色、冬────心を失った人々が暮らすどこか幻想的でファンタジーなモチーフが多々登場する「世界の終わり」。
対照的な世界観で展開されていく物語は一人称の名前のわからない主人公の語りで展開していく。
「一角獣の頭骨」という共通のキーワード。
そして、結末に向かうにつれ、二つの物語は実は主人公「僕」一人の物語であることを見事な仕掛けで描いていく。
この物語は表層の意識的な部分と無意識的という対極にあるものを、別々の世界として描いたもので心理学的な考察として興味深い。
そのひとつが、ユングの心理学であることはすでに多くの人が指摘している。
「世界の終わり」で暮らす人々は心を失っている。
壁の中の町の住人になる際に影と切り離され、切り離された影はいずれ衰弱し死んでいくからである。
ユング心理学での「影(shadow)」は、認めたくない自身の側面、受け入れられない現実や価値観、生きられなかった反面・半面。
普段は無意識の底に身を潜めている、いわばもう一人の自分自身だ。
「世界の終わり」では主人公と切り離された影が人格を持ち、自身の影と対話するという現実とはかけ離れた展開が訪れる。
町に徐々に順応していく主人公。
それでいいのか?と疑問を投げかける影。
受け入れるべき生き方や価値観、自身の影からは決して逃れられない、影との対話の中での葛藤。
そして、影との対話の後に主人公は自分の生き方を決意する。
町の住人が心を失くした人々という設定はユングにおける集団的無意識を人格化し、主人公の無意識の底にある箱庭「世界の終わり」を形作っているのではないだろうか。
「ハードボイルド・ワンダーランド」は死に向かっていくのに対し、「世界の終り」では、壁の中の町の真実を知った主人公がそこで生きていく決断をする。
「眠りがやってきたのだ。私はこれで私の失ったものを取り戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身を任せた。ボブ・ディランは「激しい雨」を唄いつづけていた。」
「降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑み込まれていった。その後には僕が踏む雪の軋みだけが残った。」
それぞれのラストシーンでの台詞である。
この台詞はユングの「死は個人の意識が人類の集合的無意識に帰する」という発言を連想させる。
そして、最後まで読んで初めて、冒頭に引用されている「The end of the world」の歌詞のメタファーに気付かせるというのが、この物語の世界観を美しく彩っているのだろう。
Skeeter Davis "The End of the World" 1962
The End Of The World - Skeeter Davis(この世の果てまで - スキーター・デイヴィス)とは
「この世の果てまで」(英: The End of the World) は、アメリカ合衆国の女性歌手、スキータ・デイヴィスのヒット曲である。
1962年12月にRCAレコードから発売され、世界的に流行した。
作曲はアーサー・ケント、作詞はシルビア・ディー。
ナット・キング・コールの「トゥー・ヤング」の作詞者としても知られているディーは彼女の父の死の悲しみをくみ上げてこの詞を書いた。
日本では「この世の果てまで」のタイトルで知られているが、原題を直訳して「世界の終わり」とした方が元の歌詞の意味に近い。引用:Wikipedia