哲学初心者におすすめの本!西研『ニーチェ ツァラトゥストラ』NHK出版
ニーチェ『ツァラトゥストラ』の超入門書です。
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『ツァラトゥストラはこう言った』は、キリスト教の道徳を批判するニーチェによる聖書のパロディであり、近代化により生まれたニヒリズムの時代おける新しい生き方を示している哲学の作品である。
では、そのニヒリズムの時代における新しい生き方とはどのようなものなのだろうか。
ニーチェはそれを「超人」だという。
そこで今回のブログでは、「創造」、「永劫回帰」などを手がかりにニーチェが示すニヒリズムの時代における新しい生き方である「超人としての生き方」について考察してみたい。
創造力を軸にした超人についての考察
ニーチェの考える超人の要素のひとつが創造するということである。
ツァラトゥストラは広場にいる民衆にむかって次のようなことをいった。
超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発して、こう言うべきだ。「超人こそ大地の意義であれ!」[……]わが兄弟たちよ、わたしはあなたがたに切願する。大地に忠実であれ、そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と 。
ツァラトゥストラは超人を大地の意義と定義し、地上を超えた希望などを説く者に信用を置くなといっている。
そこから、ツァラトゥストラはキリスト教における来世に期待する生き方を批判していることが推察される。
つまり、大地に忠実であれというのは来世に期待するのではなく、現世を生きろということである。
ではなぜ、ニーチェは来世ではなく現世を生きることが必要だと考えたのだろうか。
一般的に信仰とは信じることである。
この、信じるということは、考えたくない、楽をしたいということの裏返しともとることができる。
何かを疑ったり、検証したりすることは負担のかかることであるので、耳ざわりがよく、自分にとって有益と考えられるものであれば、信じるままにそれに寄りかかっていくことは受動的であり楽な生き方である。
また、信仰に生きるものたちのことをツァラトゥストラは次のように述べている。
すべての信仰の信者たちを見るがいい!かれらがいちばん憎む者はだれか?価値を録した石の板を砕く者、破壊者、犯罪者だ──しかし、かかる者こそ創造者なのだ 。
ここではまず憎まれる者のことを、神の死を明らかにしたツァラトゥストラのような存在であると示唆されている。
つまり、来世ではなく現世を生きよというような新しい価値基準や生き方を示す者のことである。
また、それは創造者であるともいう。
創造するということは受動的にはできない行為である。
だが、能動的に生きる者は創造することが可能であるといえる。
つまり、このことからいえるのは、ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』という作品で示した新しい生き方というのは、受動的な生き方ではなく、能動的である創造者としての生き方ということなのではないだろうか。
ニーチェの考える創造者については次の言葉からも考察してみたい。
ああ、わが兄弟たちよ、わたしがつくったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。すべての神々がそうであったように!その神は人間であった。しかもたんなる人間と自我の貧弱なひとかけらであった 。
ここでは神を絶対者ではなく、人間であったと言い切ることで、逆説的に人間の持つ創造する力を肯定しているのではないだろうか。
つまり、人間が神を創造した。
ゆえに、神は人間であった。
ならば、人間であるならば神のように創造ができるはずだということである。
ニーチェはこのように考えることによって、あらゆる苦悩を信仰心に還元して来世に期待して生きるのではなく、創造的に現世を生きるべきだと示したのではないだろうか。
つまり、神のために清らかな徳を積むことではなく、人間が人間自身のために創造していくという新たな目標もって生きよということなのである。
ゆえに、創造力というのは新しい生き方の目標である超人を形成するための要素のひとつといえるのではないだろうか。
永遠回帰を軸にした超人についての考察
では、永遠回帰は超人とどう関連しているのであろうか。
ここでは、永遠回帰を軸に超人について精査したい。
永遠回帰とは、いいことも悪いこともすべてのことがそっくりそのままの人生が永遠に繰り返すということである 。
つまり、ツァラトゥストラの場合であれば彼が嫌悪するような人間ごと人生が戻ってくるのである。
ツァラトゥストラは永遠回帰について次のように述べている。
わたしはふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。新しい人生、もしくはより良い人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない。わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。くりかえし一切の事物の永遠回帰を教えるために
この言葉に続けて、ツァラトゥストラは
わたしはわたしの言うべき言葉を語った。わたしはわたしの言葉によって砕ける。わたしの永遠の運命がそれを欲する、告知者としてわたしは亡びる !
と高らかに宣言する。
つまり、没落する自分自身を受け入れるということである。
このように何もかも受け入れ、もう一度その生を繰り返しても良いという覚悟は強い生の肯定であり、来世ではなく、この現世を何度でも生きるということなのである。
ゆえに、永遠回帰によりすべてを受け入れるということは信仰に変わる新しい生き方の目標である超人を形成する要素のひとつであるといえるのではないだろうか。
ニーチェはキリスト教的な来世を否定している。
また、ニーチェは近代を生きた人物である。
ゆえに、ツァラトゥストラは永遠回帰を信じているが、ニーチェ自身は永遠回帰が現実的ではないことはわかっているのではないだろうか。
では、ニーチェは永遠回帰を通してどのようなことを伝えたいのだろうか。
わたしたちの人生において、過去の後悔に対して、それも必要なことだったとのちに肯定できるようになることはよくあるのではないだろうか。
なぜ、このようなことが起きるかというと、その後悔を起点に生き方を軌道修正することや、反省を活かした生き方をすることにより、結果論では後悔も含めての肯定ができるようになるのである。
つまり、永遠回帰は強い心による自己の生に対する肯定ともいえるが、一方、永遠に繰り返すならば、これから先は少しでも後悔を減らせるように努力し、後悔の少ない善い人生を創造していこうという意欲へとつながるという見方もできるのではないだろうか。
また、永遠回帰により永遠に繰り返すならば、生まれ変わった次の人生では、「もっとお金持ちになれたら」、「もっと幸せになれたら」などといった「たられば」による願望も無意味になるのである。
そうなったときに、唯一できる抵抗が自身による価値の創造なのではないだろうか。
「不幸せな人生だ、よし、天国に行けるように祈ろう」、ではなく、「不幸せな人生だ、だから、これから先の未来は自分自身の力を信じて自分なりの生き方を創造しよう」と意欲を呼び覚ますことができるのではないだろうか。
つまり、永遠回帰はニヒリズムへの抵抗であり、新しい生き方や価値観を個々人が見いだすための意欲への道しるべではないだろうか。
ゆえに、永遠回帰は超人という新しい生き方の核になるのである。
超人の前に立ちはだかるものとは何か
ここまで超人という生き方を構成する創造と永劫回帰について論じてきた。
能動的に生きて自身の価値を創造し、永遠回帰の現世を受け入れさえすれば超人になれるのだろうか。
残念ながら、それだけでは超人にはなることができない。
まず、人間は神が創造した世界ではなく自分自身の世界で生きている。
また、その世界とは常に他者と関わる世界である。
つまり、わたしたちは生きている限り、他者から受ける評価や影響といった外的なものからは逃れることができない。
ゆえに、それらをどのように受け止め、立ち向かっていくかといくことが重要なのである。
超人として生きようとする人間と外的世界との間に生じる摩擦を描いたのが綱渡り師の話ではないだろうか。ツァラトゥストラは綱渡り師を見るために広場に集まってきた民衆を眺め、次のように言った。
人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、深淵のうえにかかる綱なのだ。渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である。
まず、動物とは何かということについて考察したい。
第一に、動物同士のコミュニケーションとは鳴き声であり、それは人間の言語と比較すると極めて単純なものである。
つまり、受動的で自らの考えを発することなく周りに同調し、同じような言語を発するような創造のない人間のことを動物に例えているのではないだろうか。
第二に、動物は群れで生活するものが多い。
いわゆる大衆に分類されるような人間は周りに同調し、「みんながそう言っているから」、「みんながそうするから」など、「私が」ではなく「みんなが」を主語にすることが多いのではないだろうか。
それはまるで動物の鳴き声のように同一の言葉を発しているようにみえるし、動物のようなコミュニケーションをとるだけの創造性がない群れという状態であるといえるのではないだろうか。
また、『ツァラトゥストラはこう言った』には「畜群」という言葉が繰り返し登場する。
つまり、ニーチェの考える畜群とは、近代化によって生まれた平均化された大衆社会であり、広場にいた人間たちを示唆していることが推察される。
それに対して、超人を象徴しているのが綱渡り師ではないだろうか。
その綱渡り師を下から眺めるだけで、ツァラストゥトラの言葉に耳を貸さない民衆が象徴しているのは、挑戦者に対して、「どうせうまくいくわけがない」、「できるわけがない」、「やめておけばいいのに」と冷ややかな眼差しや言葉を浴びせてくるだけで自分自身は何も新しい挑戦をすることのない人々である。
ツァラストゥトラの考える超人に対しての民衆からの嘲笑は、没落してしまう危険の中に勇気を持って飛び込もうとする綱渡り師、つまり超人であるその人への嘲笑でもあったのではないだろうか。
わたしたちは、常に他者と関わる世界で生きており、そこでは、他者から受ける評価や影響といった外的なものからは逃れることができない。
ゆえに、どんなに冷たい視線を注がれようとも、嘲られようとも、それでも自分自身の力を信じて、自分なりの生き方を創造しようと意欲し、能動的に生きていくしかないのである。
その結果、綱渡り師のように犠牲となり没落したとしても、人間は移りゆきであるから、失敗してもかまわないのである。
そのことが、次の世代や志を持つ者へ意志をつなぎ、橋として大きな目的につながっていく。
それこそが超人としての生き方であり、能動的に生きよというニーチェのメッセージなのではないだろうか。
おわりに
超人としての生き方とは神のいない世界で信仰に代わる自分自身の価値観を創造して、現世での自己の生を強く肯定する生き方のことである。これまでの生き方がキリスト教的世界観という閉じられた生き方であるならば、超人は新しい世界の中で創造力に満ち、開かれた生き方といえるのではないだろうか。
すべての人間が超人にはなれないかもしれない。意欲を持ち、創造的に生きたつもりでも、種から芽が出て、花が咲き、種を残して枯れていく植物のようにほぼ同じ形状が永遠に連鎖していくだけかもしれない。
たとえ、そうだとしても、変えられないかもしれない未来さえも受け入れ、今ここにある現世の中で創造力をもって、能動的に強く生きていくということは自分自身という小さな世界にとってはこの上ない大きな意義があるのではないだろうか。
文献表
ニーチェ『ツァラトゥストラ(上)』、丘沢静也訳、光文社、光文社古典新訳文庫
ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』、丘沢静也訳、光文社、光文社古典新訳文庫
石川輝吉『ニーチェはこう考えた』筑摩書房<筑摩プリマー新書>
吉澤傳三郎『ツァラトゥストラ入門』塙書房
哲学初心者におすすめの本!西研『ニーチェ ツァラトゥストラ』NHK出版
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