カズオイシグロ『忘れられた巨人』のあらすじ
『わたしを離さないで』から十年。待望の最新長篇!
アクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため、長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士……さまざまな人々に出会いながら、雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとは――。
失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描く、ブッカー賞作家の傑作長篇。
カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』の考察
以下、ネタバレありなのでご注意ください。
『忘れられた巨人』の舞台は6世紀ごろのアーサー王統治後のブリテン島。
忘却の霧、鬼、ガウェイン、ドラゴン、アーサー王、魔法師マーリン・・・。
ファンタジー小説を読み手が想起するようなキーワードが散りばめられている。
どこか記憶が曖昧な老夫婦が息子に会いに行くというのがメインストーリーだが、『忘れられた巨人』の物語に込められているのは「ファンタジー」とはほど遠い生々しい現代的な問いのように思えた。
グエグルの霧をキーワードにその問いを考察したいと思う。
グエグルの霧とはなにか
『忘れられた巨人』のアクセルとベアトリスの忘却の記憶の中には、ベアリトスの不貞行為、息子が家出、疫病による息子の死、という忘れた方がいい記憶が含まれていた。
しかしながら、アクセルとベアトリスの二人は自分たちにとって不都合な記憶を忘却したことで、相手を思いやり、新たな関係を築き上げた。
そのことは、作中でアクセルがベアトリスを「お姫様」と呼び、二人が離れ離れになることを恐れることを示す文脈から読み取れることだろう。
不貞行為というものはどちらか一方に責任があるものではないように思う。
つまり、不貞行為が起きる原因というものが二人の関係性の中にあったのではないかという見方もできる。
出会ったばかりの二人というのは、「グエグルの霧」による忘却と同じ状況である。
楽しい記憶も不都合な記憶もない。
それは当たり前のことだろう。
だからこそ、二人の人間は関係を築き始めるともいえる。
愛情とは目に見えないものである。
結婚して夫婦となった二人であってもそこにはズレがあるかもしれない。
そこから不満が生じて、不貞行為などに代表される夫婦間のすれ違いの原因に発展していくこともあるかもしれない。
ゆえに、問題を抱えている夫婦が「グエグルの霧」による忘却で不都合な記憶を手放して、まっさらな状態に戻したとしても、また同じように何かしらの問題を抱える可能性はあるわけだ。
作中のアクセルとベアトリスの二人は仲睦まじい老夫婦である。
まっさらな状態で出会った二人はめでたく夫婦になったが、一旦はベアトリスの不貞行為でその関係性は危うくなった。
ところが、「グエグルの霧」により不都合な記憶がなくなったことでそこから新たな関係を二人は築き上げた。
その後のアクセルとベアトリスは平穏に暮らして強い絆で結ばれているのならば、これは、Starting Over、つまり再出発といえるのではないか。
著者のカズオ・イシグロがノーベル文学賞受賞記念講演で「感情を伝え合う事こそが境界線や隔壁を乗り越え、同じ人間として分かち合っている何かに訴えかけるものだ」と述べていることから想像できるように、人と人との間の感情のやりとりには「乗り越える」力があるように思う。
ゆえに、若い頃の二人には乗り越えることができなかった境界線や隔壁を、「グエグルの霧」によりStarting Overしたアクセルとベアトリスは乗り越えたといえるのではないだろうか。
そのように解釈すれば、「グエグルの霧」による忘却は希望を生み出したという見方もできる。
しかしながら、都合の悪い歴史を「忘却」で封印しただけのサクソン人とブリトン人の未来には暗く悲惨な未来しか見えない。
そのことを次に説明したいと思う。
グエグルの霧の描く未来
結論からいうと、お互いに心からの歩み寄りではなく、サクソン人とブリトン人のように「グエグルの霧」の忘却で霧で都合の悪いものを見ないようにして築き上げられた関係はとても脆く崩れ去るものであるように思う。
「グエグルの霧」の忘却は人が自分自身でも作れるものである。
それはまさに「赦し」のようなものだ。
しかしながら、一方のみによる「赦し」は無意味であるように思う。
たとえば、人種、宗教などの違いによる対立するどちらか一方だけが赦して歩み寄ったとしても、もう一方が変わらなければどうなってしまうだろうか。
赦す側はしばらくは寛容になり受け止めることができるだろう。
自分との違いを見れば見るほど、多様性の意義のようなものにすがってみたり、あるいは相手の世界観に対してある種の好奇心のような前向きな気持ちで相手の世界を知ろうという気持ちすら起きることもあるかもしれない。
だが、赦しに甘え、相手が変わらない場合はどうだろうか。
いつの日か「グエグルの霧」による忘却は消滅し、そこにあるのはサクソン人とブリトン人のような未来なのではないだろうか。
カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』は、忘却が導き出す力を相反する方向で見事に描いた作品であるといえる。
心の中の重いざわめきは多かれ少なかれ多くの人の心の底に沈殿しているのではないだろうか。
その深淵を覗いたときに見える世界はもしかしたら見ないほうがいいものなのかもしれない。
著者カズオ・イシグロについて
1954年11月8日長崎生まれ。1960年、五歳のとき、海洋学者の父親の仕事の関係でイギリスに渡り、以降、日本とイギリスのふたつの文化を背景に育つ。その後英国籍を取得した。ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。一時はミュージシャンを目指していたが、やがてソーシャルワーカーとして働きながら執筆活動を開始。1982年の長篇デビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年発表の『浮世の画家』でウィットブレッド賞を受賞した。1989年発表の第三長篇『日の名残り』では、イギリス文学の最高峰ブッカー賞に輝いている。その後、『充たされざる者』(1995)、『わたしたちが孤児だったころ』(2000)、『わたしを離さないで』(2005)、短篇集『夜想曲集』(2009)(以上、すべてハヤカワepi文庫)を発表。2015年に発表した本作は第七長篇にあたる。これまでの作品とは大きく異なる時代設定で話題を呼び、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラーに発売直後からランクインしたほか、英《ガーディアン》紙や《タイムズ》紙で絶賛された。
著者カズオ・イシグロ略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
イシグロ,カズオ
1954年11月8日長崎生まれ。1960年、五歳のとき、海洋学者の父親の仕事の関係でイギリスに渡り、以降、日本とイギリスのふたつの文化を背景に育つ。その後英国籍を取得した。ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。一時はミュージシャンを目指していたが、やがてソーシャルワーカーとして働きながら執筆活動を開始。1982年の長篇デビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年発表の『浮世の画家』でウィットブレッド賞を受賞した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)